香川グッチ之助が会社を辞め、大分県で隠遁生活を初めて2年と3ヶ月になった。
グッチ之助はどこか、幼少の頃より俗世間を離れた独特なところがあった。同級生よりニンテンドーの遊びに誘われても、「嗚呼世間は暴力暴力ハイスコア。我は左様な戯れに興味なし・・・我を案ずることはなし、遊べや遊べ、わかうどよ」などと一人で文庫本を抱えては裏山に登る。そして背中から、「嗚呼・・・」などと短いため息をもらすのであった。夕暮れなど。
さて香川グッチ之助は東京師範学校を卒業後、牛角チェーンで有名なレインズインターナショナルに就職することになった。マイペースで解脱傾向のグッチ之助が、社員の平均年齢が若く、実力主義の厳しい社風で知られるレインズインターナショナルで働くことには周囲の心配もあったが、意外とグッチ之助は周囲にそれなりに溶け込み、上手くやっていたようである。そして社会人2年目、28歳のとき、グッチ之助は初めて女性を知った。女の名前は只野和歌子といい、人事部の事務を担当していた。背が高く、美人だった。
ある秋の日の飲み会で、グッチ之助は珍しく泥酔してしまい、気がつくと半裸になって和歌子とホテルの中にいた。和歌子はグッチ之助の両脇に手をつき、上からグッチ之助の顔を覗き込んでいた。「グッチ之助さま」と顔の近くで言うものだから、女性特有のぬるりとした甘い香りがグッチ之助の鼻の穴を刺激し、グッチ之助は図らずも呆となった。すると和歌子は猫のようにぺろりとグッチ之助の頬をなめ、もう一度「グッチ之助様」といった。やはり甘い香りがした。グッチ之助は何か言わねばならぬと思い、「和歌子殿」と言った。和歌子はグッチ之助の目を覗き込んだ。お互いが、お互いの目の奥を、すうっと覗き込んだ。トクンと心臓が打ったのがわかった。和歌子の瞳を覗くのは、何か長い筒の中を覗くような気分だった。筒の中は細かく分断されていて、無数の細かい部屋が縦に並んでいるようだった。部屋の境目を通るたびに、ティンと小さく音が鳴った。その小さい音が連続的につながり、音楽になるように感じた。
「グッチ之助様、グッチ之助様は和歌子のことがお嫌いでありますか」
「嫌いではござらぬ」
「では好いておりますか」
グッチ之助は、覆い被さるようにしていた和歌子を払いのけ、半裸のまま部屋を横切った。クローゼットを明け、炭と半紙を取り出すと、さらさらと詩のようなものを書いた。
「なんと書いてありますか」
「思へれども届かず、かの秋の鹿の声、聞いたか、聞かぬか 我いまだ知らず」
和歌子には全く意味が分からなかったが、まあオーケーということだろうと思い、グッチ之助を押し倒し、口を吸った。和歌子の少し酒臭い息がグッチ之助の肺に入ってきた。暖かい息だった。グッチ之助は和歌子の背中に腕を回し、背中を優しくなでた。和歌子は、グッチ之助の骨盤をしっかりと両手で抱き、「初めてみたときよりお慕いしておりました」と言った。
こうして、その日グッチ之助は生まれてはじめて女を抱いた。
さて、グッチ之助の仕事は順調なようだったが、急に仕事をやめ、大分県の故郷に帰ってきた。廃坑の近くの小屋に住みつき、裏山にのぼっては一ヶ月も二ヶ月も山で座禅をしていた。特に疲れているようにも、悩んでいるようにも見えなかった。いつも通りの、超然としたグッチ之助の顔だった。
「てっきり仕事は順調だと思っていたが」
「いくつになってもキノコ、キノコ、コイン。キノコ、キノコ、コイン。竜殺し、姫を抱きしてまた竜殺し。仮想なり。すべてかりそめなり、そうでんな、アハハと笑う世界、我居場所なし、我満足できず。我、生きたし。このリアルな世界に、徹底して生きたし。リアルな喜びを感じたし。よろこんで。網の交換ですか、喜んで」
そしてグッチ之助は自然農法を始めた。
「有機農法なんてもう古いのじゃ。有機などといえど所詮は作り物、仮想の世界。殺虫剤減量、コストなんぼ、の世界。俺が求めるのはリアルな食う、ということ、天の理に則い私欲を去る、すなわち則天去私の世界。我は一個の動物として」
グッチ之助は相変わらずアルカイックなスマイルを浮かべながら、土地に種を巻いていた。「生えよ、殖えよ」といいながら種をまいていた。
夏になり、私はまたグッチ之助をたずねた。グッチ之助の畑は荒れ放題だった。雑草が伸び、虫が這っていた。グッチ之助は何をすることもなく、上半身裸で木のふもとで座禅を組んでいた。
「やはり農業は向かなかったか」
「何をいう、これが我が農法なり、我が自然農法なり、自然があれば雑草も生えよう、されば日陰もできよう、虫にも食われよう、その中で、生きよ、その中で。自然なり、則天なり。みよ」
グッチ之助の指先の先に、ひょろり、つるりと生える穀物があった。茎を虫が這っていた。食うところがあまりなさそうに思われた。
「わが息子なり、わが子なり、我はただ見守るのみ、祈るのみ、伸びよ、殖えよ、殖えよ、と」
グッチ之助はカッと笑い、手で印を結んだ。
秋になり、収穫の季節になった。グッチ之助の穀物は破格のグラム7,000円の値がついた。しかしなにぶん収穫量が20グラムと少なかった。グッチ之助は、14万円を手にしながら、少し現実的な瞳で、和紙に詩のようなものを書き、私に見せた。
天に祈り天に則し 声を聞く、糧を得る、嬉しからずや
、いまや 聞かぬか 聞くか 秋の鹿の声 知る ティーン
香川グッチ之助、若干31歳であった。