ホテル清掃員の朋子(52)は、その清掃の遅さで有名である。朋子の清掃がとりたてて丁寧なわけではない。ただただ動きが緩慢である。リュウマチのわけでもない、「あたしゃ、この道20年やってんだ。だいたい部屋の使い方をみれば、どんな人が泊まったのか分かるね」そんなはずもない、朋子から何か気の利いたことを引き出そうとしても無駄だ、人生の教訓を教えてもらおうと思っても無駄だ。「さあねえ」彼女の人生にはまったく喜びもなければ苦しみもない。病気もしたこともなければ快調を感じたこともない。ただただ、食物を食べて、排泄をして、栄養を清掃に変えて、続いていく。毎日続く。朋子の人生は、そのような52年だった。

そのような朋子に恋をするものがいるのだから不思議だ。天麩羅屋の寅吉、朋子に恋をして、今日も新宿西ホテルにやってくる。「おい、朋子さん」「あら、寅吉さん」

天麩羅屋とは何か。天麩羅をあげる商売である。海老を衣に塗って油に揚げる。海老ばかり揚げておっては割に合わないから野菜もあげる。ししとう、たまねぎ、しいたけ、そんなものをあげる。挙げたばかりでは味がないので、たれや、塩を添えて売る。

「天麩羅にはな、コツがあるんだ。サッと油に通す、この通し方が難しい。」

 

 

「ほら、天麩羅だよ、朋子さん」そういって、寅吉は白い紙袋を差し出す。なるほど天麩羅の油のにおいがする。朋子は、815室の清掃をしている。朋子の働く新宿西ホテルは、連れ込みホテルに毛の生えたような安ホテルだ。低層の月給取りが立ちんぼの外国人を連れこむ。地方から歌舞伎町に遊びに来た若者が泊まる。そのような宿だ。

「ひどいな、こりゃ」 朋子が取り替えようとしているシーツを見ながら、寅吉がつぶやいた。朋子は何も言わない。

「なあ、朋子さん、そろそろ、返事してもらえんやろか」 寅吉は、照れているのか、いらついているのか、目線を窓の外にやりながら、不満そうな声で言う。冬の公園では、予備校生らしき若い男女が、コートのポケットに手を入れて寄り添っていた。

「寅吉さん、返事なら何度もしているじゃありませんか、私。とてもそんな気になれないんです。実は、そんな気になったことなんて、生まれてから一度もないんです。想像したこともないんです。だいたい、私なんかのどこがいいのかしら、きっと後悔なさるわ」

最近の天麩羅業は不景気で、天麩羅をあげているだけではとても商売をやっていけない。特に、寅吉のような流しの天麩羅売りは外国資本の進出もあり、厳しい。

「おい、天麩羅売り、天麩羅ばかり揚げていないでたまには外のものをあげたらどうだ」

丁稚奉公の餓鬼にも馬鹿にされる。寅吉は悔しくて涙を流すこともある。特に夕暮れなど。最近よく涙が出る。この間、ふとした用事があって浅草の実家に住む妹に会いに行った。

「兄さん、元気そうでなによりで」

数年ぶりに妹を見て、寅吉は、「あぁ、俺はもう長くないかもしれない。これが、妹をみる最後かもしれない」そのような啓示に打たれた。寅吉の人生で、将来にこのような強い確信を持ったのは始めてだった。静かな、落ち着いた啓示だった。

「泣くことはないじゃないですか、兄さん」

「うん、ぜんぜん悲しくはないんだがなあ」

815室の清掃が終わり、朋子はカートを引いて、隣の814室のドアを開ける。ドアには、“814”という部屋番号を示す小さいプレートが控えめに貼ってある。

「なぁ、朋子さん、もうわしには、あんたしかおらんのじゃ。」

最近の天麩羅売りは、天麩羅を揚げているだけではやっていけない。特に、流しの天麩羅売りはそうだ。冬になれば、拍子木を打ちながら歩かねばならん。カッチカッチ、「天麩羅ー天麩羅っ!」カッチカッチ。ぶるる、あぁ、今日は寒いなあ。「挙げたてのー天麩羅っ」、カッチカッチ。

ひと月前、屋台を引きながら、公園を曲がったところで、寅吉は、朋子の後姿を、初めて見た。そのとき、一緒になろうと決めた。

「なあ、朋子さん」

寅吉は朋子の肩を両手で掴んだ。そして大きくゆさぶる。寅吉の両目は充血して大きく開き、口からは泡が流れている。水分を失った皮膚はカサカサと白い粉を吹いており、抜けたまつ毛が1本、右の頬にひっついている。

「朋子さん!!」

寅吉の顔はひきつり、開け放たれた口からは、内臓の悪い匂いがする。黄ばんだ、歯並びの悪い下あごの歯が見える。顔が、全身の筋肉が、小刻みに震えている。


「やめてください!!私は、そんなつもり、全然ないんです!」

朋子はとっさに、清掃中だったポットを手にとり、お湯を、寅吉の顔面に向かって投げつけた。寅吉は「あうっ」といって顔面を手で覆う。ひるんだそのすきに、朋子はするりと寅吉の背後に回る。

前夜、宿泊客がポットでお湯をわかしコーヒーを飲んでくれてよかった、ポットの接触が悪くなくてよかった、朋子は20年の清掃業人生の中で、初めて宿泊客に感謝した。

「うぅっ、目が、目が・・・」

うめく寅吉の背骨に向かって、渾身の力でモップを振り下ろす、ゴキゅリ、という確かな手ごたえがあって、モップもぐにゃりと曲がってしまう。

「うぅっ、腰が、腰が・・・」

寅吉は左手で目を押さえ、右手で腰を押さえている。まったく、男ってものは、なんて単純で哀れな、情けない生き物なのかしら。朋子は、モップを、床に投げ捨てると、シーツをベッドから剥ぎ取り、寅吉の首に巻きつける。

「うぐぐぐ・・・」うめく寅吉。口からは、白い泡が吹き出てきている。必死に、腕をふり、床をたたき、朋子の首締めをはずそうとするが、先ほどの傷めた背骨のせいで、思うように力が入らない。やがて、抵抗をやめ、さきほどまで天麩羅屋だったものはぐったりとした肉の塊になった。

「なんだか、悪いことしたみたい」朋子は少しかわいそうになったが、今からそんなことを考えてもどうしようもない。寅吉の懐をさぐり、財布から現金6千円と小銭百数十円を抜き出した。ポケットも探ってみると、小さな写真が出てきた。写真には、5~6歳の寅吉と、その妹であろうか、3歳くらいの、少女が写っている。

「気持ちが悪い」

朋子は、写真をびりびりと小さく破り、開いた窓から投げてやった。写真はひらひらと、新宿の汚れた空気の中に降りていった。そして朋子は手馴れた手つきで避難はしごをするすると下ろす。

避難はしごが地上まで下りたのを確認してから、朋子ははしごに手をかける。そのとき、何かを思い出しように、部屋にいったん戻り電話を手にとり、フロント9番に電話をした。

「814号室、ヘルプ必要です」

部屋にやってきた若いボーイは、天麩羅屋の親父の死体と、曲がったモップと、細く丸められたシーツを発見した。清掃用のカートには、白い紙袋に入った天麩羅が置かれていた。天麩羅は冷めており、ボーイは、「こんな冷めた天麩羅はさすがに食えない」と思った。

エンドロール。