砂浜を掘っていたら、どこに埋もれていたのだろう、薄いプラスチックの破片が爪の間に入り込み、鋭い痛みがあった。みると左の人差し指から出血している。顔を上げた。時刻は11時頃か。西の空の方に、下半分がぼんやりとした月が浮かんでいた。海は漆黒でなめらかに光り、空気はひんやりと、湿気を含んでいる。曇り。雨になるかもしれない。遠くに、明石大橋と、イカ船の明かりがちらちらと見えた。
指を口に咥え血を吸い、少し正気に戻った。夢であったらいい。時間が戻ればいい。しかし指の怪我の痛みは、時間がたてば経つほどひどくなりそうだった。気が滅入る。家に帰っても絆創膏はない。消毒液もない。
それにしても、俺はなぜ砂浜など掘っていたのだろう。
思い出せない。指を怪我したショックで忘れてしまったのか。まぁいい、たいしたことではない、次郎は岸に戻り、自転車にまたがった。イヤホンを装着する、ヒップホップが流れる、ラップの向こうではコンクリートの音がした。
ハンドルを持つ、指がずきんと痛み、「くそっ」と小さな声が出る。次郎はまた指を口に咥え、傷口を舐める。
佐保川沿いの堤防は、春になれば花見の住人でにぎわうが、冬の夜中には誰もいなかった。沿道は暗く、曲がりくねっているから、誤って堤防に落ちないように、スピードを出しすぎないよう、慎重に自転車を運転する。一ヶ月ほど前、ちょうどこのエリアで幼女の殺人事件が起きたという。犯人は学校帰りの7歳の女子を誘拐し、口の歯を全部抜き、殺害した。その後、被害者の母親に少女の死体の画像を携帯メールで送った。
犯人はまだ逮捕されていない。人口20万人ほどの、小さな街に、殺人者が野放しにされていることで、街はちょっとしたパニックになっている。警察の尋問も多い。次郎は「ちぇ」と舌打ちし、指をまた口に入れ、指からにじんでくる血を吸った。
自転車は左に曲がり、四車線の国道に出る。やはり車通りは、ほとんどない。黄色の点滅する信号が、黒いアスファルトに光る。次郎はスピードを出して、坂を下っていく。
坂を下りたところで道は二つに別れている。次郎は左側の道、細い旧街道を選んで入っていった。すぐ両脇まで古い木造の民家がせまってきており、圧迫感がある。石炭の、防腐剤の匂いがする。長い土塀を抜けて、道は軽い登り坂だ。息がはずみ、次郎の脇が軽く汗ばむ。昔の宿場らしい、立派な二階建ての家屋を通り過ぎる、玄関先に大きな石が3つ、4つ、装飾として置かれていた。道幅はいよいよ狭くなり、勾配も急になる。自分の吐く息の音が聞こえる。森の匂いがする。次郎が空を見上げると、鳥が、小さく一声ないた。坂道はいよいよ急になり、次郎は、自転車を降り、押していくことにする。金属のチェーンが回る音、チャラチャラチャラチャラ、静かな暗闇に響く。
やがて次郎は開けた広場にたどり着いた。下半分の欠けた月は、西の空に沈もうとしている。広場の真ん中には、イチョウの木があり、次郎に向かって影を長く伸ばしている。木の付け根に、人が座っていた。折りたたみ式の椅子に座りながら、その老人は次郎に向かって話しかける。驚くことに、老人の口から発せられた声は、20代半ばの若者の声だ。抑揚のない声で、老人は言った
「昔起こったこと、起こらなかったこと。あれは、起こったのか、起こらなかったのか、どちらだったのかのう」
次郎は、歯をかみしめた。怪我をした左の人差し指を老人の顔に突き出すと、老人は次郎の指を、ゆっくりと口に含み、こう言った。
「血の味がする。意外と、深い傷かもしれん」
次郎は、耳からイヤホンをぶちりと引き抜き、ポケットからナイフを取り出した。左のこぶしを、老人の口に押し込みながら、右手にもったナイフの柄で、頭部を殴りつける。老人は全く抵抗しない。2回、3回、繰り返し、殴りつけていると、老人の体がゼリーのように、だんだん柔らかくなっていく。それでも次郎は執拗に老人を殴りつける。
老人が十分に柔らかくなったところで、次郎は、ナイフを反対に持ち替えて、刃で老人の額をけずっていく。鉛筆を削っているようだ。老人の額はスルスルと簡単に削れて、長い、薄い破片になっていく。血が噴き出すこともない。老人はただのぶよぶよとしたタンパク質の塊である。頭から順に削っていき、足の指を削る頃には老人は、高さ70センチほどのスライスの塊になった。
いつのまにか、夜はすっかり明けきっている。
ここから先どうしたものか、家に帰っても絆創膏はないし、消毒液もない。次郎が途方にくれていると、タンパク質のスライス塊から声がした。人の形を失い、スライスになってからも、やはり、20代半ばの男性の声だった。
「起こったのか、起こらなかったのか。過去ばかりか、将来も不確かで」
そのとき、広場に一陣の風が吹いて、イチョウの葉と、タンパク質のスライスがひらひらと広場に舞った。にゃあにゃあと鳴く猫たちが森からやってきたかと思うと、スライスをムシャムシャと食べて、どこかに行ってしまった。朝露に濡れるイチョウの葉は、一面に黄色で、繊維の匂いがした。
次郎は、ヘッドフォンを装備して、自転車にまたがった。イヤホンの向こうでは、相変わらずコンクリートの音がした。
ヒップホップ。