ジャングル(長い話)
ジャングル。密林。けもの道。
クマやパンダが踏み固めた道を、僕のスニーカーで踏みしめる。ここは熱帯。僕は冒険者。
木の枝をつたうのはカラフルな蛇だ。うろこが光る。あざやかな紅い花からしたたる蜜に蜂が群れる。ここは熱帯。ジャングル。
僕は軽く音をたてて折れる枝や葉を踏みしめながら、木の間を縫うように歩いていた。見上げると木漏れ日がまぶしい。「世界が終わったとはね。」僕はひとりでつぶやく。
木星3個ぶんほどの巨大隕石が太陽系の惑星軌道をめちゃめちゃにして去った。海王星と冥王星はあっさりと太陽の引力圏から逃れて挨拶もせずに外宇宙へ、隣の銀河へ巨大隕石とともにと旅立った。
土星のリングがグワーンと散らばって弾け飛びビー球みたいにぶつかり合って自由への旅に出発した。
地球は一度大きく外宇宙に引っ張られ、瞬間的に氷河期に入った後、ふたたび金星と火星の間の定位置に奇跡的に戻ったのだ。そしてどういうわけか僕の家あたりが熱帯、ジャングルになってしまった。
ほとんどすべての人類が突然の氷河期で死滅。偶然にも冷蔵庫に閉じ込められていた僕は、コンデンスミルクをなめながらなんとか露命をつないだ。冷蔵庫に閉じ込められた時は、狭いし、キムチは匂うしで、随分不運をなげいたものだけど、気温がもとに戻り、自然に冷蔵庫のドアが開いた時には幸運に感謝しないわけにはいかなかった。
なんと美しい世界だろう。ドアの外にひろがる熱帯のジャングル。カラフルなオウムが羽を広げている。世界は不思議に満ちている。冷蔵庫に閉じ込められていた動物たち。ずいぶんたくさんいるもんだ。
僕は冷蔵庫業界のがんばりをたたえ、氷河期を前に冷蔵庫に駆け込んだ賢い動物たちの野生に感心した。人間が失ったものを彼らはしっかりと持っている。冷蔵庫の使い方も心得ている。
僕はコンデンスミルクを捨て立ち上がった。おだやかな夕暮れの光が僕の頬を赤く染めた。
「世界は今、生まれかわった。」僕は宣言し、ドアから最初の一歩を踏み出した。
一日目
僕は地面に線を引き自分の名前を書いた。プロダクト・バイ・マイセルフ。大地を削り、水を流す。僕が署名を済ますと夜が唐突にやってきた。ガチャンという大きな音が日の落ちた山の向こうで聞こえた。もしかしたら太陽が壊れてしまったのではあるまいか。不安になる。
僕は道をたどり、星を眺め、月と一緒に歌った。いっこうにお腹も空かないし眠くもならない。不思議だ不思議だと思っているうちにおかしなフクロウが飛んで来て「どこからここにきても、さっぱりあそこには行けないものだ。どこから来ればここにきてあそこに行けるのか?」というようなことを聞いてきた。どこもそこも、だいたいどこに行きたいのだい?「いつからいまになったものか、どうしたらその時に行けるのか?」とかわからないことばかり聞いてきて、僕はそのやわらかそうな頭の羽とか立派なまつげなんかを眺めてるうちにすっかり眠くなって、フクロウもそのままにして眠ってしまった。
もしかしたら、あれは夢だったのかな。
二日目
目覚めるとやっぱりフクロウはいなくて、僕は小川の清水で顔を洗う。清水の流れのなかに金色の糸のようなものがずーっと流れている。僕が手をひたし、糸をたぐろうとすると糸は僕の手の中に溶けてつまむこともできやしない。この金色はただの色なのか、それともそういう水なのか。
僕は金色の糸ごと水をすくい、口へと運んだ。水はお腹へ到着するとすぐに全身にひろがってパン!と体が張った。毛穴からきらきらした小さなしずくが霧のように噴出した。これなら風呂いらずだ。
指を弾いて水を跳ねる。きらきらと音がする。愉快だな。
僕は小川を後にして世界を探検にでかけることにする。どこまで行ってもなにもない。僕が歩いたところに世界ができるんだ。不思議な感じがしたけど、特にいままでと変わることはないんじゃないかな。知ってるか知らないかってだけで。
その日は他の生き物には出会わなかった。うずをまいてネジみたいに見えるバナナとか(食べにくそうだ)葉の裏側一枚一枚に「ハズレ」って書いてある木とか、変な植物を眺めているうちにあっさりと夜になった。そうそう。また日が暮れると山の向こうでガチャン!ってすごい音がした。もしかしたら毎日太陽が壊れているのかもしれない。在庫が気になる。
三日目
ごわごわっていう感触のでっかいなにかが僕のほっぺたを押して、「む」と目を覚ますとでっかいクマみたいな生き物が僕のそばに座っていた。「やあ」とその生き物が言った。「やあ」と僕がいった。それが毛玉との出会い。
僕が目を覚ましたばかりでぼんやりしていると、その、しばらく後で僕が「毛玉」って名前をつけるんだけど、そのクマみたいなのが背中あたりから魔法瓶を取り出して僕にコーヒーを入れてくれた。なにがなんだかわからないけどとりあえずせっかくなのでコーヒーをいただくことにした。「すごく甘いけどおいしい。」と僕が言った。「ふーん。」とそのクマみたいなのが言った。
「それでさあ。名前は僕が付けていいの?」と僕が言うと、いかにも変なことを言った人を見るみたいな感じで見られて、毛むくじゃらで実際は見えないけど眉間のあたりにシワを寄せてるみたいな雰囲気だったからもう面倒くさくなって「じゃあ、毛玉ね。毛がいっぱい生えてるから。」と名前を毛玉に決定してあげた。
「ふーん。」と毛玉は言ってとりあえずそれで納得したみたいだった。じゃあ良かった良かったってことでまたふたりで座り込んでコーヒーを飲んだ。
「毛玉ってさあ。魔法瓶どこにしまってんの?」僕が毛玉の魔法瓶のコップで甘い毛玉コーヒーをすすりながら言って「背中に決まってんじゃん。」って毛玉が言った。魔法瓶は背中に決まってる。
そうして日が暮れてまたガチャン!て音がしてもうあんまり太陽の在庫については考えないことにした。そんなに毎日毎日太陽の在庫の心配ばかりもしてられない。
夜は毛玉のお腹の上で寝ることにした。もくもくしてて暖かくて柔らかい。「すごいね。毛玉のおなかは。すげえ寝心地が良いよ。」と僕が言うと「くっくっく」と言っておかしな声で毛玉は笑った。
夜空は鋼鉄みたいに固そうな黒で、ちょっと不安になるくらい星が光っていた。こういう夜はきっと月が丸いんだなあと思って探してみると、低いところに満月が隠れて銀色に意地悪く光っていた。
僕は毛玉の毛に手を埋めて月から目を離した。
「夜ってさあ。」眠っているかもしれないと思った毛玉はやっぱり起きていた。すこしだけ体をうごかして僕の気配を聞いている。それがわかった。
夜は溶けて、月が笑った。森の奥の湖のほとりの小さい花が、ぽっと恥ずかしそうに夜の花を咲かせた。
「毛玉ってさあ。」僕は顔を毛玉の毛に押し付けた。「枕持ってないの?」
「持ってるわけないだろバカ。」毛玉はそう言った。
「なんだよ。持っとけバカ。」「うるさい寝ろ。」とか言い合ってるうちにいつのまにか寝た。
四日目
目が覚めると毛玉はいなかった。ずいぶんあっさりしたやつだなあ。僕はふかふかした芝生に横たえられていて、さすがに重かったのかなあ。ちょっとぼんやりした。
太陽が真上にくるころに僕は立ち上がり歩き出した。よく考えてみたら目的もなんにもない。それはちょっとまずいんじゃないかなあと思った。けどどうしようもない。やがてジャングルが開けて光る水面が見えた。湖だ。水は薄い水色でどこまでも透き通って見えた。
踏みしめるとわずかに揺れて波紋を作る飛び石を踏んで、湖を縦断した。あつらえたような丸い飛び石だと思って湖の底を見てみるとどうやらそれは飛び石なんかではなく、湖底からそびえたつ柱のてっぺんが水面から飛び出しているものみたいだった。水の底には大理石みたいなつるつるしてそうな廊下が一直線に敷かれていて、その廊下の端を飾るように柱が水面まで、等間隔で立てられているのだ。
どこまでも一直線に続く水中の柱を見ていると、合わせ鏡を見ているようなぐらぐらするような気がしてなるべく水面だけを見るようにした。
もしかしたらだれかが住んでいるのかもしれない。と思いながら湖を渡りきろうという頃に、湖の淵にとてつもなくでっかい亀がいることに気づいた。これは要注意だ。こういう亀は意地悪でなぞなぞが大好きと相場が決まっている。
なぞなぞはめんどくさい。
僕が大ガメのそばまで来ると、大亀は僕の顔を見上げて「へえ。」と声をだした。亀の挨拶は「へえ」だ。僕は「やあ。」と言った。
湖の淵にはたくさんの小さな白い花が咲いている。見たこともない丸い小さい花が一面に咲いていた。
「ずいぶんきれいなところですね。」と僕は言った。お世辞ではなくて、本当にきれいな湖だ。
「へえ。」と亀は言って目を閉じた。それから口をぱくぱくしばらく動かしてそれからやっと「へえ。そうですねん。」と言った。亀は関西弁だ。
亀はゆっくりと前のヒレを動かして波をたてた。波紋がきれいな円で湖のむこうの淵まで広がっていくのが見えた。
「カメはカメでも、食べられないカーメだ。」とやがてその大ガメが歌うみたいに言った時にはてっきりなぞなぞをだされたのだと思った。「パンはパンでも」ってのなら知ってるけどなあって。僕があきらめて「わかりません」と言うとカメは「へえ。」と言って目をぱちぱちとしばたいてからふーっと息を吐いた。それからたぶん眠ってしまったんだと思う。目を閉じてなにもしゃべらなくなった。
あれが自己紹介だったということに気づいたのはだいぶたってからだった。失敗した。
本当にきれいな湖だった。昔の思い出みたいにきれいで澄み渡っていた。子供の時にみた自動車の窓越しにひろがる入道雲みたいに大きくてどこまでも広がっていた。
そしてまたガチャン。唐突に夜が来て気づいたら僕はだだっぴろい平原に一人で立っていた。
涼しい風がゆっくりゆっくりと漂っていて、僕は明かりひとつ見えない山並みを見渡した。そういえば人類は僕をのぞいて全部滅んでしまったんだった。いつのまにか見渡す限りの草、また草の平原。どこから来てどこに行くんだかさっぱりわからない。あのフクロウの言ったとおりだ。
一面に生えた草はプラスチックのようにつるつるで、虫の声もひとつも聞こえない。地面もたぶんスポンジでできているんだろう。山の向こうではおそらく、粉々になった太陽を誰かが片付けているところか。明日の太陽は昇るのだろうか。
僕は草むらに横になって夜の空を見上げた。今日は意地悪な月さえ顔を見せない。僕は地面に吸いつけられるみたいに眠りに落ちていった。それで夢をみた。オレンジ色と黄色の壁の迷路を、僕はさまよっていた。そういう夢だった。
夢の世界
黄色の壁は布地みたいにざらざらした感触。僕は手をあてて壁に沿って歩く。こうやって壁を触りながら歩けば迷路の中で迷うことはないのだ。
直角にまがる角をそのままさらさらとなでていく。曲がった先もまた一直線の黄色い道。
天井は少しだけ暗いオレンジ色。
僕は靴を脱いで裸足になった。足で地面を感じていたい。
右手で壁をなでながらずっと歩いた。時間も忘れていくつも角を曲がって、ずっとずっとそうやって壁を触っているうちに指の指紋なんかはとっくにつるつるになってしまったのではないかな。
気が付くと左手で壁を触っていたり、ひたいをおしつけて斜めになって休んでいたり。また歩いていたり。黄色の壁はオレンジ色になって、オレンジの天井は黄色になって。僕は飽きることもなくあるき続けた。
とんとんとんと歩くたびに骨の振動が腰から背骨を伝わって頭蓋骨をふるわせる。
僕は夢の中で夢を見る。煙をあげて崩れる塔。そして二本目の塔にも致命的な砲弾が突き刺さる。
煙を上げつづける。
目を覚ますことはないんだ。僕は黄色とオレンジの迷路のなかで、うつぶせになって寝る。
五日目
ゆっさゆっさと揺られて目を覚ますとちょっと高い。地面が揺れている。僕は毛玉に抱えられて持ち運ばれている。「毛玉かあ。」
昨日よりもだいぶ山並みが近付いて見える。風がずっと涼しい。草がさらさらと音をたてている。
「急にいなくなるな。ずいぶん探した。」と毛玉が言った。急にいなくなったのは毛玉の方だ、と思ったけど黙っていた。「うーん。」毛玉に運ばれるのは気持ちがよい。見上げるとはるか高い空の天井あたり、鳥が舞っているのが小さくみえた。
「門番に会いに行く。」と毛玉が言った。
「うん。」と僕は言った。門番ってなんだ?とにかく目的ができた。成り行きにまかせるというのは素晴らしい。
「カメはカメでも食べられないカメはなーんだ。」僕は毛玉になぞなぞをだしてみた。答えはもちろん僕も知らない。「知るか。バカ。」やっぱり毛玉はそう言った。
「昨日さ。すごいでっかいカメに会ったよ。山みたいなの。」
「ふーん。」
「それがさあ。なぞなぞ大好きって顔してんの。」
「ああ。あれすごい年寄りだ。」
「カメ知ってんの?」って話しながら、風が涼しい。
カメはべつになぞなぞ好きじゃないって。
日が山のうえに乗りかかったみたいな状態で、もうじき例のガチャンの時間って頃に門にたどりついた。なにもない平原の真ん中に巨大な門だけがドンと立っていて、わきに門番らしき男が立っていた。門は堅く厚そうな木製で、壁のようにぴったりと閉められていた。
僕と毛玉が門に近付くと、門番はゆっくりとこちらの顔を見据えて腕組みをした。きっとずっと前から僕たちが近付いて来ていたことには気づいていたはずだ。屈強な筋肉が肩から胸にかけて、モンゴルだかチベットだかの民族衣装のようなデザインのタンクトップ状の服からまるごと見せつけている。
「あれが門番だ。」と毛玉が僕に言った。
「そしてこれが門だ。」と門番が言った。
「うーん。」と僕は毛玉と門番の顔を交互に見て、空を見上げた。やがてまた太陽が壊れる音がして、夜が来た。
随分無口な門番だけど、悪い門番ではなさそうだ。
僕と毛玉は門番が手際よくこしらえた焚き火をかこんで横になっていた。門番は自分専用の、そのからからはちょっと小さすぎるんじゃないだろうかと思うような椅子に腰掛けてじっと火を見つめていた。
焚き火の火が影をつくり、生き物のいない平原に影は踊った。
しんとした夜の空気のなかで、たきぎの燃えるちりちりという音がやけに大きく聞こえた。毛玉はやわらかそうな腕を枕にして寝息をたてている。僕はずっと焚き火の揺れる火を眺めていた。
「手で触れるだけで、門は開く。おまえなら簡単に開くことができるだろう。」モンゴル相撲のチャンピオンみたいなその門番が話し始めた。
「入り口なのか、出口なのか、それはわからない。ただ、一度くぐりぬけると元にもどることは難しい。そんな気がする。」
気がする?
「先に進むことを必要としているなら、門を開いてみるのもいいだろう。」
毛玉はどうして僕を門番のもとへ連れてきたのだろうか。
「どこにいるのかまだわかっていないのなら。無理には薦めない。さっきも言ったけれど、一度抜けてしまったものは簡単には後戻りができないんだ。ゆっくり考えればいい。」
僕は門番の顔を見た。門番も僕の顔を見ていた。その小さい丸い目からは、なにも読み取ることができなかった。でもたぶん悪い門番ではない。
僕は寝転がってひじをついている。焚き火の火が揺れながら空へ散る。
門番は門へ顔を向け、門の表面の材質を確認してるみたいな感じでしばらく見ていたけどまた焚き火に視線をもどした。僕は焚き火から目を離さなかった。
わからない。わからない。
僕は手元の雑草を抜き、放り投げて地面を見つめた。虫もミミズもいやしない。砂は砂ではなく、土はたぶんボール紙でできているんだ。僕は少しだけ、地面が僕や毛玉や門番や、すべての生き物を乗せたまま黒い夜に浮かんで漂っているところを想像した。魔法の絨毯みたいに、終わらない夜を漂い続けるのだ。
たきぎが大きく爆ぜて、火の粉が軌跡を描いて舞った。僕は体を起こし、あぐらをかいて座ると門番を見て、しかたなく笑った。門番は少し疲れたような顔をして、でもうなずいた。それで僕は眠った。
六日目
昨日の門番と、それから門がきれいさっぱりなくなっていた。それからやっぱり毛玉もいなくなっていた。でも太陽は今日も元気に空を昇っている。まいにちまいにちご苦労さまだ。
僕は途方に暮れた。太陽は昇り、熱気が草原をざわめかす。立ち上がれ雑草たち。地面は乾いた。門は消え、門番も消えて毛玉もどこかに行ってしまった。僕は座り込んだまま石を拾ったりそれを投げたり。そうして思いついて僕は地面に質問を書いた。とがった石を握って砂埃をあげながら地面に質問を書いた。「?」マークで締めくくってさあ答えを聞かせてくれ。きかせてくれるものなら聞かせてもらおうじゃないか。
僕は立ち上がって答えがあらわれるのを待った。そうするとしばらくして一匹のトカゲが草むらから走り出てきた。
いかにも哲学者のような顔。口をしっかりと真一文字に閉じて、冷たそうな薄い体をぺたぺたと左右に振る。僕は彼の動きを見下ろした。
砂色のトカゲは広げた指をせわしなく動かしてつるつると曲線を描いた。「ろ」かな?いまの動きは。そうしてちょうど「ろ」の曲線の最後あたりでピョンと跳ねた。次の文字ってことかな。
トカゲは次の文字を待っている僕を知ってか知らずか、指をにぎにぎして張り切って準備体操をしているような様子。そしてまたちょこちょこと曲線を描いて忙しく手足を動かす。さっきと似たような曲線だ。似たようなというか同じコースで走っている。「ろ」か。
踊りトカゲは一文字「ろ」を書くたびにいろんなポーズでダンスを決めてみせた。もしかしたらこっちのダンスの方に意味があったのかもしれない。7個ほど「ろ」を書いて脇をわきわきさせて気のせいかもしれないけど僕の方をチラリチラリと見ながらトカゲは草むらに走り去っていった。
たぶんいまのはただのトカゲだ。トカゲのダンスだ。答えなんかではない。気のせいだ。
僕は平原を見渡して門番が言ったことを考えようとした。もうほとんど忘れていた。
僕の書いた質問は、古代の遺跡に残された歴史の記録みたいに見えた。目の端をなにかがかすめる。目をうつすとさっきとはまた違うけどまたトカゲがでてきていた。もうこいつは明らかに僕の目を意識している。立ち止まって脇を「わき、わき。」ってやってる。ダンス自慢のトカゲだ。もういいよ。
そうしてなにげなく空を見上げてびっくりした。薄い青色の空に黒のマジックで書いたみたいにくっきりと「Yes」ってゴシック体で書いてあった。答えはずっとそこに書いてあったんだ。
空の「Yes」は僕がしっかりと見たということを確認してパラリと空からはがれた。それはたなびきながら雲の流れる方向へ、風に乗って飛んでいった。光沢のある文字は太陽をうけて光っていた。
僕は口を開いて「は」と言った。それから僕の視線が戻ってくるのを待っていたダンストカゲが猛然と地面に「ろ」を書きだしたのを見て笑った。もういいって。すごいから。わかった。すごい。
彼は黒くてまるい宝石みたいな目で、僕を見上げた。そして大きな口をパクリとひらいて「は」と声を出した。
僕は山に向かう。
七日目
山には登山口なんてものはなくて、ドアがひとつあるきり。バカにしてる。
僕はドアを開けて山に入る。おじゃまします。どうも。ドアを閉める。ぱたん。
あたたかい空気が頭の上あたりを漂っている。僕は部屋を見渡す。山の中とはおもえないくらい普通の部屋だ。丸太小屋の中みたいな雰囲気だよ。
部屋の奥のカウンターから主人のような人が顔を出す。「さあ。雨具なんか脱いで。暖炉で暖まると良いよ。」僕は言われたとおりに雨合羽を脱いで、ん?いつのまに合羽なんか着ていたのかな。まあいいや。
帽子掛けに合羽をかけてズボンについた雨粒をはらった。
主人は僕のためにゆり椅子を暖炉の前に用意してくれた。
「すぐに温かいスープを用意させるから。」
僕はゆり椅子に座って靴と靴下を脱ぐ。それにしても寒かったなあ。寒かった?
店の奥からしっかりしたおばさん風の声が聞こえてくる。「ほれ。できたよ。これであったまるよ。」「パンもあっただろう?」「切ってすぐに持っていくから。」
僕は店の厨房から聞こえてくるそういうやりとりに耳をかたむけながらゆり椅子の上で息をついた。今日はずいぶん歩いたなあ。
温かいスープとパンをいただいて、眠くなるぐらい暖まった。
「本当においしかったですよ。」
「おかわりはいかがですか?」
宿の夫婦のふたりの娘は珍しそうに僕を遠巻きに眺めながらクスクスと笑っている。
「ええ。結構です。本当においしかった。」
僕はそう言って暖炉の火をすこしだけ眺めた。
雪ですか?すごく深かったですよ。ええ。ほら、ズボンなんてここまで雪で濡れているでしょう。
はい。そうです。いいえ。大丈夫でしたよ。猟銃を持っていましたので。
僕は自分で指差した先に、さっき脱いで掛けておいた雨合羽の脇にぴかぴか光る猟銃が立てかけてあるのをみた。さっきまでなかったのにな。僕が持ってきたのだけど。さっきまでなかった。と思う。
僕はおととしに森でであったクマのことや、このあたりで噂になっているオオカミの群れの話をした。おととしもなにも森でクマにあったこともなければオオカミなんて僕は見たことないはずなんだけど、なんだかそんなことがあったような気がするんだなあ。
そうそう、それでね。群れを率いている大オオカミを三角谷で惜しいところで。仕損じた。私が風下から雪に体を隠してね、そう。引き金を引こうとしたその時ですよ。
『谷中から獰猛なオオカミの声が一斉に湧き起こった。私は、谷を見渡した。森のなかのオオカミたちが声をあげながら駆け下りてくる。もちろん大オオカミはもう視界から消えている。罠だ。狡猾なオオカミたちの罠だ。狙われているのは私だ。慌てて起き上がった。荷物をすてて猟銃だけを片手に走った。オオカミたちの荒い息が背中に迫って、』
宿の主人とおかみさんとふたりの娘は、僕のくちもとを食い入るように見つめながらオオカミの話を聞いている。僕の口はそこだけ別の生き物みたいにパクパクと動いている。
甘いものが食いたいなあ。僕は頭のすみでそういうことを考えながら口の動くのにまかせてパクパクとしゃべり続けた。自分の腕に、さっきまでは確かになかったはずのもじゃもじゃの毛がはえているのも、どうも胸元あたりから獣じみた匂いがただよってくるのも気づいてももう驚かないよ。
喉が渇いたなあ。ミルク紅茶なんかが飲めたらいいな。
「おやじさん。すまねえが酒は置いてるかい。」ちょうど僕の口がそう言った。酒でもなんでも好きなだけ飲めばいいや。僕は頭のスイッチを切って眠ることにした。好きにしろ。
「じゃあ世話になったな。また寄せてもらうよ。」
僕の手がドアのノブをひねって外に踏み出したところでぼんやりと目が覚めた。
猟銃をかたげて獣の皮のベストから強烈な獣と酒の臭いを漂わせていた僕は、ドアを開けて外にでるとまたたくまに以前の僕にもどった。腕の剛毛もみるみるしぼんで消えていった。外はまだ早朝のようだ。
僕は風船がしぼむみたいに小さく縮んで、もしかしたらだぶだぶの皮がしわしわになってるんじゃないだろうかって腕や足を確かめたけど、そんなことはなかった。ただ、いつもどうりの以前の僕に戻っていた。
今日こそあのクマのやつめを仕留めてやるぞ、というような獰猛な気分もまぼろしか夢みたいに太陽の熱で蒸発して消えた。それでここで。僕で。たぶん。これで僕だと思う。
やれやれ。もう。
八日目
なに?ペンギンに会いたい?そりゃあちょっと難しいと思うよ。知らないけどさ。どうだろう。あんまりこの辺りではみないよ。ペンギン。はは。ん?カバになりたい?そりゃ無理だよ。変わった子だね。
じっくり腰を落ち着けて花壇のチューリップちゃんたちと話し込んでいたらすっかり昼をすぎてる。「くう、くう」というお腹が鳴るみたいな声をあげて白いペリカンが低い空を飛んで行く。くう。くう。あんなに大きなくちばしに、いっぱい「寝言」をつめこんであんなに膨らんでるのに、小さい短い羽で気のない感じでぱたぱたやっても前になんて進むわけないよ。くう、くう。
ペリカンはいろんな生き物の「寝言」を拾い集めてしまっておくのが趣味なんだって。口を開くと「むーん。そんなに食べられないよ。むにゃむにゃ。」とか「そーら。一番高いぞ。むにゃ。」とか寝言がこぼれてしまう。だから寝言をこぼしてしまわないように、ペリカンの鳴き声は鼻から「くう、くう」。
そうなんだって。知ってた?
赤、赤、赤、赤、赤、黄色の園長さん、赤、赤、赤。園長さん以外はみんな赤色だね。さあ?どうだろう。そんなことはないよ。君の赤色もとっても素敵だと思う。いいえ。順番なんかつけられないよ。みんなみんなとってもきれいだと僕は思います。ダメ?それはなし?
僕はおもわずため息をついてしまった。どうしたってチューリップちゃんたちは「きれい」に順番をつけたがるんだろう。そんなねえ、そんなことは、ん?園長さんまで。そんな。わかりました。わかったわかった。わかったって。えーい。
右から、1番目にきれい。次の人、2番目にきれい。そのとなりの人が3番。はい。4番。あなた5番。6番。7番。8番。9番。10番。まじめに?ちゃんと?ばれた?よーし、じゃあねえ。
今度は左のチューリップちゃんから、1番、2番、3、4、5。怒るやら笑うやら。そうやってるあいだに日は傾いて、色のついた光に照らされて。みんなすごくきれいですよ。隣の子を見てごらん。そうだね、手触りのいい布地みたいだ。ほんとやわらかくて優しそうに見えるよ。僕もそう思う。
お互いを見合って、感心して黄色い声でワイワイ言ってたのにガチャンと太陽が壊れると、それっきり会話も途中でおいたまま彼女たちは一斉に花を閉じてしまった。みんな同じ格好で首を傾けて、眠ってしまったのね。
ふーむ。じゃあまたね。聞こえてるかな?
今日はいちにち花壇の前ですごした。夢みたいな日。
九日目
じゃんけんロボがちっとも僕を離してくれない。
木陰から踊りだしては「じゃんけーん!」って道行く旅の人とか旅のパンダとか旅のカバとか、とにかく誰彼かまわず勝負を挑むこのロボット。こんなの造ったの誰だよ。テクノロジーの無駄使いだ。
じゃんけんロボはサングラスで視線を隠してはいるものの、あきらかに僕の右手のひじの辺りをX線なんかで透視してる気配。僕の指が動くゼロ・コンマ・秒の単位で僕がだすじゃんけん手を100パーセント正確に予測するシステムな予感。
そして最初から何回やっても「あいこ」なんだ。
「あいこっしょ」「あいこっしょ」「あいこっしょ」って延々とやられてごらんなさい。いくら僕が初対面の人には礼儀正しく接するべきと日ごろから考えていたとしてもですよ、限度というものがある。
「こら!いい加減にしろ。勝てる勝負には勝て!根性!」
僕はロボを叱り付けながらじゃんけんを続けるのだ。こういうコミュニケーションもある。寂しがりのじゃんけんロボが勝ち負けを捨て「あいこ」を続けるということを考えついたのはどんな夜のことでしたか。その夜はきっと月も黄色くよそよそしかったに違いないね。
手も疲れてグーを200連発していたあたりで妙案がひらめいた。だってね。もうすぐ太陽も壊れるし、だいたいもうほとんど一日中じゃんけんやってる。お腹も空く。
僕は次の「あいこっしょ」で指をキツネの形にした。コン。
「これはね。グーとパーとチョキのすべての利点を兼ね備えた難攻不落の禁じ手であって、ルールブックには書いてないかもしれないけどとにかく強いって言うか。まあ反則で僕の負けってんならそれでもいいけどね。」って言おうかなあって思ってたらじゃんけんロボも当たり前みたいにキツネだった。
「あいこっしょ」「あいこっしょ」「あいこっしょ」
そこからはもう「おまえ一本」とか「ヒトデ」とか「長寿と繁栄」とかオリジナル技を次々に繰り出した。ロボは寸分たがわず同じ形で勝負を「あいこ」に持ち込んだ。すごいよ。ロボ。
太陽がまた壊れる。
十日目
間違いなく夜は明けている時間なのにいっこうに空が明るくならない。僕は寝ていても仕方ないんでとりあえず草露のわずかに光るのを頼りに道をたどった。かさかさという土を踏む音がやけに大きく聞こえる。山の向こうで、時計のネジをまいているようなそんな雰囲気。もくもくと淡々としたなかに、なにかの準備をしているような気配が空気に混じって漂っている。
時間で言えば今は朝か、昼のはずなんだけど、太陽がないから夜だ。太陽がいつ昇るか見当もつかないから、世界で一番深い夜だ。
僕はそれに気づくとなんだか嬉しくなってしまった。明日の準備をしている人が山の向こうにいて、僕は太陽のない空のしたを目もぱっちりとさえて歩いている。
低い地面の上を流れて風が草に乗る。ゆらゆらと揺れてさざなみのように果てしない向こうからどこまでもあっちの果てまで。草の揺れる音が流れていく。速く、速く。目にも見えないし、触ることもできないけど、かっこいい。
この世界にもきっと、走りすぎた風のたどりつく場所があるのだろう。時間の流れ着いたその終着地点がどこかで、世界のポケットみたいなところで息をついているのだろう。
思い出を奪い去って時間は走り抜ける。そして思い出をためこんだ風も待合室を出発して、やがて八方に散る。煙みたいに。見えないものだから。それを見る目をもたないものだから、僕はなすすべもなく見送るしかないのだ。
山の向こうからネジを巻く音が聞こえる。途切れ途切れ、なにかを落とすような音とか。それを拾いあげるような気配とか。
太陽を昇らせる準備をしているのだ。山は崩れないだろう。僕はここにとどまるだろう。時間があるかぎり、僕はさまよい続けるだろう。
世界一深い夜の中で、僕はいろんなことを知る。自分の手の平が透明になったように見えた。
十日目の深い夜。
十一日目
僕は眠りの中にいる。僕が見るのは青い夢だ。もぐりこんで、いつのまにか真ん中までもぐって見回しても深海魚だっていやしない。僕は息を吐く。僕の記憶があぶくになってゆらめきながら消えていく。
ここにずっといたんだ。ずっといたくはないんだ。僕はゼリーのように密度の詰まった青を握り手を開く。鳥になれなかったわけは、いつまでたってもわからないんだろうか。
僕ははばたく。ゆっくりとクジラみたいに。肩の力を抜いて。まだ光は見えない。
「苦しい?」「いや。」
「少し。息が苦しいよ。」
僕は少しずつ、なまこかウミウシみたいに這うみたいに進む。水面がどっちにあるのかもわからないんだけど。でも僕は進む。
その昔、緑の草と土の間からたちのぼる蒸気。水素や酸素。たとえば、白や黄色の光の角度。温度、匂い。世界が。すべての生命が僕に教えてくれた。
僕は息をぼかんと吐いた。「そうだ!そんなに昔のことではない。」
僕の腕が水を捉えた。そうして、水をかく。僕に泳ぎ方を教えてくれたのは誰だろう?
僕は少しだけ目を開く。まばゆい光が遠くに見える。
足の動かし方。肩のまわし方。呼吸の仕方。思い出したよ。僕は青い水に口を開き、鼻から呼吸をする。冷たい空気が気管を抜けて肺を満たす。いくらでも。僕の肺はポンプだ。いくらでも。
「苦しい?」「いや。」
「ぜんぜん。」
僕はイルカのように体をくゆらせて、いまやまぶしいほどの光にむかって一直線に泳ぐ。水圧がどんどん軽くなり、体を自然に水面へと押し出す。僕は目を開く。空気を吸う。
「はあーー。」飛沫をあげて水面を突き破り僕は空を見上げる。
ここは?
目覚めると太陽は昇り、草は風に揺れ。ここは世界だ。もっと空気を。
ひばりが空に舞う。さあ、歩こう。
十二日